遠州大念仏のいわれ
今からおよそ430年前、時は多くの大名が天下を目指した戦国時代、京に攻めあがる武田信玄の軍勢と後に天下統一を果たす徳川家康の軍勢が激突、これが、かの有名な三方ヶ原の合戦でございます。戦国最強とうたわれた武田の騎馬隊の前に、家康軍は敗北。命からがら浜松城へと敗走いたします。武田の追撃隊は夜も更けてきた為に、浜松城の北に陣をとり、夜が明けるのを待ちます。これに対し家康は「サイガガケ」に布の𣘺を仕掛け、武田軍の背後から夜襲を仕掛けました。慌てた武田軍は人馬ともに次々と「サイガガケ」に落ちてゆき、多くの兵士が命を落としたそうでございます。
それから数年後、この地において農作物の不作や疫病の流行などが起こり、また「サイガガケ」の下からはうめき声が聞こえるなどの話しが広がり、人々は合戦で命を落とした武田軍の祟りだと噂しあいました。
この噂を聞いた宗円(ソウエン)というお坊さんが「サイガガケ」の上に宗円堂(ソウエンドウ)と呼ばれるほこらを建て七日七夜、亡くなった兵士の為に念仏供養を行いました。この時宗円は笛と太鼓、鐘を鳴らして人々に念仏を唱える事を勧めたそうでございます。それからはうめき声も聞こえなくなり、凶作や疫病も無くなったそうです。この供養を知った家康は毎年7月13日~15日まで退転なく、この供養を行うように布告しました。それ以後、地元の人々は宗円堂に集まり念仏供養を盛大に繰り広げるようになりました。
これが遠州大念仏のおこりとされています。
元々、宗教色の強かった大念仏ですが時代の流れとともに大念仏の由来や意味などを伝承する組も少なくなり薄れていきました。そんな中、遠州大念仏保存会が有志の手により組織され、昭和47年には「無形民俗文化財」に指定されました。現在では盆供養に欠かす事の出来ない重要な役割を担っています。昨今では社会環境の変化などで、組のメンバーが集まり練習する事が難しくなってきております。また後継者不足という深刻な悩みを抱えているのも現状です。
どうぞこの場を機会に郷土芸能にふれて伝統を大事にする心を養っていきたいものです。