夏目漱石のペット達を供養する
夏目漱石のペット達を供養する「猫塚」
新宿・早稲田南町には夏目漱石の蔵書や関連資料が展示される「漱石山房記念館」があります。元々は明治40年から大正5年、夏目漱石が亡くなるまで過ごした終焉の自宅「漱石山房」。ここで、「三四郎」「こころ」「道草」などの代表作が執筆され、文化人の集まるサロンも開かれていました。
記念館の隣にはお庭のような小さな「漱石公園」があり、中央には石を積み上げた供養塔「猫塚」が建っています。「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の十三回忌を記念して、漱石が飼っていた動物の供養塔として妻の鏡子が建立。戦災で失われましたが、その残欠を再利用して昭和28年に復元されました。供養のための塔であり、モデルの猫は同じ敷地の別の場所で眠っています。
吾輩は猫であるのモデルとなった猫
漱石がまだ作家ではなく、東京帝国大学や明治大学で英語講師をしながらも俳壇で活躍し名声が上がっていた頃のことです。
漱石が37歳の年。自宅に子猫が迷い込んできました。妻の鏡子はあまり猫が好きではありませんでしたので、家に入り込むたびにつまみだしていました。
しかし、何度つまみ出しても、猫は家の中へ入り込んできます。子猫に気づいた漱石は、鏡子に「置いてやったらいいじゃないか」といい、一緒に暮らすようになりました。
子猫は一見黒猫に見えますが、よく見ると黒い被毛の中にも虎模様があり、爪の先まで真っ黒。
夏目家に出入りしていた按摩さんから「奥様、この猫は足先まで黒いので珍しい黒猫でございます。飼っていれば家が繁盛いたします」と聞くなり、猫のご飯に鰹節を乗せるなど、大事に扱うようになりました。
その後、明治38年に処女作「吾輩は猫である」が大ヒット。その後立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていったため、「福猫」に間違いはなさそうですね。
猫の埋葬の儀
猫には名前は無く「猫」と呼ばれていたそうですが、漱石の背中に乗ったり、子供達と遊んだりしながら幸せに天寿を全うしました。「漱石山房」に移って間もない、明治41年9月13日のことでした。
猫の遺骸は、木箱に入れられ、書斎裏の桜の樹の下に埋葬しました。漱石は白木の角材に「猫の墓」と書き、裏面に一句をしたためました。「この下に稲妻起る宵あらん」これが、猫の墓標となりました。
墓標の左右にはガラスの瓶を2つ置き、たくさんの萩の花を活けました。以降月命日がくると、鏡子は墓標の前に、鮭の切り身一片と鰹節一椀をお供えしたと伝えられています。
猫の死亡通知書
翌14日、漱石は門弟や友人に向けて、猫の死を悼み、次のような葉書を送りました。
「辱知猫儀久々病気のところ療養相叶わず昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイ(かまど)の上にて逝去致候。埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び申さず候。以上」
葉書の周囲にはきちんと墨で黒枠がつけられていました。哀悼の想いを込めて、塗り込められたのかもしれません。